歌川広重

寛政九年~安政五年(1797~1858)

広重は本名を安藤重右衛門といい、江戸八重洲河岸定火消同心 源右衛門の長男として生まれました。文化六年(1809)に両親を相次いで亡くすと13歳で家業である火消を継ぎましたが、一方で幼い頃から絵を好んでいたこともあり、文化八年(1811)頃に浮世絵師 歌川豊広に弟子入りします。
“広重”の名は師匠の豊広から「広」、本名 重右衛門から「重」を1字ずつ取った画号(絵師としての名前)です。
家業を身内に譲り画業に専念しだすと、天保四年(1833)頃には東海道の宿場とその周辺の風景を抒情的に描いた名所絵(風景版画)、『東海道五拾三次之内』(保永堂版東海道)を刊行。
この作品は当時の旅ブームに乗って大ヒットし、広重は一躍、人気絵師の仲間入りをします。その後も一説に20種類を超えるといわれる「東海道」のシリーズ作品や『木曾海道六拾九次之内』、『冨士三十六景』などの様々な名所絵を手掛けます。名所絵師として名高い広重ですが、その他にも花鳥画戯画作品など様々なジャンルの浮世絵版画の作品を手掛けています。
最晩年の傑作と評価される『名所江戸百景』を制作中、安政五年(1858)9月6日に62歳で亡くなりました。

「死絵」 三代歌川豊国

辞世の句

「東路へ 筆をのこして 旅のそら 西のみ国の 名ところを見む」

浮世絵とは

浮世」とは人々が生きているこの世の中を指しています。この「浮世」を描いたものである浮世絵には、その当時に生きていた人々の暮らしや文化、流行など、彼らが興味を持ったありとあらゆる物事が描かれています。
そのため広重が得意とした「名所絵」の他にも歌舞伎役者を描いた「役者絵」や当時の美人が描かれた「美人画」、物語などで語られる武士を描いた「武者絵」、マンガのようなデフォルメされたタッチで面白おかしな絵を描く「戯画」などジャンルは多岐にわたります。
また浮世絵はその形態から大きくふたつに分けることが出来ます。ひとつは絵師が紙や布に直接筆などで描いた「肉筆画」。
もうひとつは木版によってられた「版画」です。
静岡市東海道広重美術館が扱う作品は主に「版画」作品。その中でも 「錦絵」と呼ばれる多色摺り木版の浮世絵を収蔵・展示しています。

名所絵
『東海道五拾三次之内 由井 薩埵嶺』
歌川広重
役者絵
『東都高名會席盡 金子 助六』
歌川広重、三代歌川豊国
美人画
『美人風俗合 江戸新吉原』
歌川広重
武者絵
『平忠盛』
歌川広重
戯画
『道中膝栗毛 小田原泊り』
歌川広重
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